2015/11/16

虐待の構造が理解できて自覚もできているなら、その連鎖からは逃れられるか?


 私は逃れられないのではないかと思う派です。
 青木無常でありますよ。



 DVとか虐待とか、言葉はどうでもいいんです。







 親や家族や世間から暴力を喰らわされて、心に傷を負って歪んでしまって、世間と適合できない。

 こんな苦しいことはありません。

 こだわりから解き放たれれば楽になれるのに、と軽々しくいわれることも業腹。

 だれよりも自分がそれをわかっているのだから。



 暴力といっても、物理的な暴力だけとは限らない、ということにも言及しておきます。

 もちろん、物理的な暴力がもっともタチが悪い。

 物理的な暴力が横行している家庭であれば、それは精神的な暴力に上乗せされたものですから。



 こういう連鎖から逃れるにはどうすればいいのか…に、対する答えは、残念ながら私は得られていません。


 少なくとも私は、世界に対して壁を建て、扉を閉ざして最低限しか開かないことでしかそれには対処できていない。





 さらには、おぞましい連鎖がくりかえされることが目に見えているから、家庭などというものをみずからの手でつくるなどという愚行には考えるだけで背筋が凍る。

 もっとも、それ以前に自分には家庭をつくる基礎的な能力すら欠けていることも自覚しております。







 ただ、自覚的ならまだマシなほうではないか?

 というような小さな自負を小さく論理強化することが可能なニュース記事に小さく救われましたので、ほんの小さなおすそわけ。

 でございます。


ビーカイブ 2013年6月7日
DVや虐待をする親は3パターンに分けられる
http://b-chive.com/parent-to-the-abuse-and-dv-can-be-divided-into-three-patterns/






 なんと、3つものパターンが存在するんですねえ。

 2つくらいなら、なんとなくおぼろげに感じる程度には存在を認識していましたけど。


  1.自覚的なパターン

 虐待の知識等があり、自分にもその萌芽があるかもしれないことに自覚的なパターン。

 幸いにして(といっていいのかどうかは知らんけど)私はこれに当てはまります。

 わが家は物理的な暴力がふるわれることはまずなく、むしろそういうものに対しては眉がひそめられるような状況でありましたので、気づけてよかったと思います。

 愛と依存を混同したまま大人になってしまっていたりしたら、地獄そのものでしょうからねえ。







 記事中ではこのパターンの人間は

実はこの人たちは自分の問題を自覚し、悩むことができているという点できわめて能力の高い人たち
と語られています。
 救われますなあ。

 ま、だから育児に問題はない、とはいえないらしいですけどね。


  2.強迫神経症などの既往歴があるか、アルコールや薬物依存

 記事はこれをひとつのパターンとして抽出しているようです。

 問題は、育児に困難を感じていても

自分なりの方法に問題を感じていない
という部分にあるということなんでしょうかね。


  3.親になることに対する覚悟が欠如しているパターン

 覚悟がないだけでなく、低所得層・低学歴で自分の家族も崩壊している、というパターンのようです。

 ひどいいいかたをしてしまえば、無知・無学。
 いや、無知・無学であれば家庭が崩壊する、という意味ではありませんので、念のため。

 無計画にセックスしてできちゃった婚してなしくずし的に親になってしまった、という経過をたどりやすい…ということでもあるのでしょうかね。

 私にとっては他人事に近いんですけど、やっぱりこういう親にも怒りは禁じ得ない。





 それに私の家庭は「人間は適齢期に結婚して家庭を築くもの」という思考停止的常識主義の果てに成立しているので、まったく無縁ともいえないのではないか、とも疑ってきた部分と合致するなあ。


この人たちはみずからの育児行為が虐待であるという自覚はありません
という文言が虚無感を加速させます。

 私の家族も、自分たちにまちがいがあるということはうすうす感じているかもしれないけど、それを自覚したり問題が奈辺に存在するかということについに気づき得ぬまま最後までいってしまった、という気がします。






  なぜDVは起きるのか

 ニュース記事は、なぜDVが起きてしまうのかについても言及されている。

 その中の、家族とは権力構造であり、「支配と被支配の場」であるという部分には「それ見たことか」と鬼の首をとったように大はしゃぎしたい。(`▽´)

その権力構造は夫から妻へ、親から子どもへという支配と被支配の関係の複合体として
成立している、と。

 まさしく、私の懊悩の原型がここにある、と感じます。
 さらに、

しかもその支配はややこしいことに、私物化という心性を基盤とした「愛情」として表現されています。
という文言は、もう、拡声器を手にして世界中に「これこのとおり!」と大音声で喧伝しまくりたい。(`▽´)





 愛という美しいひびきの言葉は思考を停止させる。

 そしてなんでもかんでも正当化させる。

 社会という共同体がその抑止力となる場合もあるでしょうけど、むしろ社会がそれを助長している場合のほうが少なくないしより問題の根が深く、強固で、度しがたい。

 むかしの村落共同体そのものが、こういう「正当化」を強化する装置そのものとして機能していた場合が多い…

 …のではないか、という気がしてやまない。







 核家族化した現在において、その暴力性と正当化はより激しくなっているのではないか、とも思います。

 まさしく外部から閉鎖された地獄として。



 顕在化されたDVなど氷山の一角。

 その陰には、当人たちですら気づかずに連鎖している“見えない”虐待が山のように積みあげられているのではないか、と私は疑っている。



 もちろん、そうではない、真の意味で健全な家庭もたくさんある…と、一方では思っているし…

 そうであると、信じたい。
 心から。







 でなければ、あまりに救いがなさすぎますからね。



 この世界は、どこもかしこも地獄である。
 とまでは絶望してはいないので。



 もっとも、その「どこかにあるふつうの家庭」とは、自分はほとんど完全に無縁である、とも思っているので、実質的にはかわらないのかもしれませんが。(`▽´)



 だからって世界を憎悪してもなんの意味もない。

 とも、もちろん、わかっています。



 わかっちゃいるけど本日はこのへんで。
 最後まで読んでくれて…
 …ありがとう。












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