2013/06/28

「考証」に関してつれづれ思うこと


ご訪問、コメント、ありがとうございます。
青木無常でございますよ。


物語を創作していると、
「科学考証」とか「SF考証」とか
あるいは「歴史考証」や「時代考証」
といった言葉にぶつかります。

うわ、たしかにそうかも、気をつけなきゃ、
と、そういう言葉に直撃されるたびに思いますけど、
果たしてそうなのかどうか、という話。


NEWSポストセブン 2013.06.02 16:00 の記事
歴史考証担当者 織田信長がタバコを吸う場面の変更をお願い


この記事は、(おそらく)依頼を受けて
歴史を考証する仕事をしているかたの
立場、というか視点から書かれているようで。

「お願い」などという
ソフトな言葉が使われていますが(^_^;)。

この「考証」などという言葉が出てくる場合は、
だいたい、もっと高飛車な視点からの、
強圧的な「下知」であることがほとんどでありまして。

太古のむかしより、
われわれ創作者を苦しめてきた元凶なのでありますよ(^_^;)。




ま、もちろん、科学的・SF的、あるいは歴史的に
“正しい”内容であることのほうが、
創作者本人にとっても望ましいのは間違いないんですがね。

でも、気がついたらこういうのに、
がんじがらめに縛られて
身動きできなくなっている、
なんて状態にだけは、陥りたくはないですね。

たとえば、上のニュース記事でいうと、

《合戦のさなかに敵の弱点を見つけた戦国武将が、思わず「チャンス!」などと外来語を口走るのは論外》
(《》内は引用)

という部分。

何が「論外」だよ、こざかしい。
と、私は、強い反感を抱いてしまいます。

ま、たしかに「チャンス!」なんて、
私が子どものころにすら
存在しなかった言い方ではありますけどね。

いや、チャンスという言葉はもちろんありましたが、
「チャ~ンス!」という言い回しかたは
だれもしていなかった時代だった
って意味でありますよ。

でも、たとえば「好機が到来した!」
というような言いかたに変えればいいのか、というと。

かなり疑問なんですよね。



私は歴史考証になどまったく詳しくないし、
推測というか憶測がかなり
混じってしまうのですけどね。

たとえば古文。

現代語訳、という言葉からも明白ですよ。
口語体と文語体などという言葉もありますが。

そもそも「口語」と「文語」の区別が
最初から存在していた例など
皆無とはいえないでしょうが、
ほとんどないんじゃないですかね。

つまり、現代のわれわれが
読解するのに非常に労力を要する古文も
その昔はふつうに「口語」でしゃべられていた言葉。

なのではないか、と。

となれば。
「チャンス」がダメなのなら、
平安時代のドラマなんて、ぜんぶ
古文調でセリフつくらなきゃおかしいでしょ。

「考証」的にはね。



もちろん、そんなドラマ、一般の人間には
なにを言ってるのかさっぱりわからないだろうし、
見るひとなんざほとんどいないでしょうね。

だから、この程度の「考証」なら、
どこで線引きするか、だけの問題。

ま、歴史ドラマで
「チャ~ンス!」は論外(あ!)としても
外来語を使用しただけで、
気づいた場合は興ざめ、ってのはありますけどね。

だから使わない方が無難なのも間違いないですけど。

でも、じゃ「好機到来!」は「考証」的に
正しいのかどうか。

いや、先にも申し上げたとおり、
私はぜんぜん詳しくもなんともないので、
「好機到来」という言葉がいつごろから
使われ出したのかとか、もちろんまったく知りません。

ただ、他の「外来語」でない言葉だって、
歴史上“存在しない”時代は必ずあるわけです。

そもそも中国から漢字が入ってきて
それが広まって定着するより前は、
「音読み」と「訓読み」自体が存在しないわけで。

極端な例ですが、たとえば
縄文時代を舞台にしたドラマであれば、
「音読み」の「日本語」自体が存在するのが
「考証」上おかしい、という話になってしまう。




「好機到来」が信長の時代にあったかどうかは、
くりかえしになってしまうけど、私ゃ知りませんよ。

でも、なかったとしたら、この言葉を使うのも、
「考証」上おかしいわけで。

「好機到来」はあったとしても、
現代使われている「外来語」ではない「日本語」のうち、
戦国時代に存在していた言葉がどれだけあるか。

言葉そのものでなく、
概念自体が存在しなかった言葉だって、
すくなからず、場合によってはかなり、
調べれば出てくるのではないか、と。

そんなのいちいち調べられないし、
考証してくれる人をやとったとしても、
すべて“正しい”ものにしようとしたら、
台本のセリフなんてずたずたになりそうじゃないですか

となれば、そもそも“考証”的に正しい言葉で
台本を固めなきゃならない、なんてこと自体が
ナンセンスきわまりない話になってしまう。



「チャンス」は存在しなかったでしょうけど、
“好機が到来した”という概念くらいなら、
戦国時代にもあったでしょう。

だったら、別に現代語に翻訳した“セリフ”として、
「チャンス」を使用したって、
「論外」などと非難される謂れなどない
―と、思いませんか?

視聴者を興ざめさせるから使用しない方がいい、
というのはもちろん、ありますけどね。



でも、手塚治虫の名作『どろろ』とかにも、
外来語ぞろぞろ出てきてますよ。



醍醐景光が地獄堂で
四十八(あ、48じゃないか!(^_^;))体の鬼神に
祈りを捧げるとき

「イエスというしるしを見せてくれ!」

というセリフがあるんですよ。
そのあとも、

「オーケイ」
「プレゼント第一号」

と続きます。

気づいてましたか?
また、気づいてたとして、それが
『どろろ』のおもしろさに
水をさしたりしました?

イエス(^_^;)、と答えるかたは、
あまりいないと思います。



いや、別にだから、
「チャンス」とか「イエス」とか
「OK!」や「プレゼント」とかを
時代劇でも積極的に使おう!

とか言いたいわけではないですよ(^_^;)。

知ってたら、あるいは気づいたら
もちろん使わない方が無難。

『どろろ』だって、漫画という
記号的な表現方法、しかも手塚治虫の絵柄だから
外来語はもちろん、あのセリフまわしも
違和感を感じる方が少数派でしょうけど。

リアルな感じで描こうとしたら
危険であることはまちがいないです。

信長のタバコも、毛利元就が見物する花火も、
豊臣秀吉が手にした「真っ赤なスイカ」も
時代的にあり得ないと知識にあるんなら、
使わない方が無難でしょうよ。



もちろん知りませんがね、私ゃ。
これらの例が本当に「考証」的に
正しいのか、あるいは単なる定説にすぎないのか。

あ、いや、定説って使うと、
すべての科学は定説に過ぎないって話もあるし、
これまた“正しくなくなって”
しまいそうですが(^_^;)。

まあともかく、定説って、
ちょくちょく覆されたりしますしね。

ま、定説上、正しくないことを承知の上で、
わざと秀吉に真っ赤なスイカを食わせたり、
信長に「ジョーカー」喫わせたり、
なんて手法もありますがね(^_^;)。



要は、正確性にこだわるあまり、
おもしろさが犠牲になってしまうのは本末転倒。

そうなるくらいなら、考証屋が口やかましくいう
「正しい」「まちがってる」などという言葉に
まどわされるのはナンセンス、という話。

つぎの例なんかは、その好例かもしれませんね。




NEWSポストセブン 2013.05.02 16:00 の記事
秀吉が建てたと言われる墨俣「一夜城」今の研究では存在否定


これは、やとわれ側である考証者が
涙をのんでる例ではありますけど。

ここで考証の圧力にまけて
ドラマの台本自体を変更したりしてたら、
とんでもないことになりますよ。

結果、よりおもしろくなったり、とかも
あり得ないとはいえませんがね。

ま、たいがいは、台本やドラマ自体がズタズタになっちゃって
おもしろさ半減しちゃうんじゃないですかね。
常識的に(^_^;)類推すれば。



知らなかったことは気にすんなってことです。



と、自分にいいきかせて、今日まできました(^_^;)。
そういえば、どこかの有線で
よしだたくろうの「今日までそして明日から」を
どこかの女性歌手がカバーして歌ってるのを最近聴いた(^_^;)。

オヤジの年齢になった今きくと、
「利いたふうなことぬかしやがって」って
ちょっと思っちゃった(^_^;)。



私のブログとか読んで
そんなふうに思ったりしたら、
ぜひコメント欄に苦情をどうぞ!(^-^)



待ってるぜ!



本質的には、今日の記事なんか要するに、
“考証屋”から批判されるのが怖い
って告白してるようなもんなんですよね。



という感じで、いつものことですが
いいたいこというだけいっといて、本日はこのへんで。
それでは、また~(^-^)/~~






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